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その日は、雨が降っていた。 「雨、ですね。菊」 「ええ。雨、ですねぇ」 ぼんやりと縁側に座り、しとりしとりなどと生易しいものではない、ザアザアとすさまじい音をたてる雨を見る。無風のために、縁側に座っていても、そこまでの被害はなかった。目の前で弾け飛ぶ大量の雫が私の目に映る。どうしようもなく切なくなった。 「どうして、雨が降るのでしょうか」 ぽつり、この雨とは似合いもしない、掻き消されそうな小さな声で呟く。しかし、菊はそれをきちんと拾っていたらしく、しばらく間を空けた後に、ゆったりとした口調で口を開いた。 「あらゆる意味での、恵み、でしょう」 その言葉は、信じられないと思った。菊と出会って、彼が言うことは全てが正しいと思っていた私がいたからこそ、酷く哀しくなった。自分勝手だとは、十分分かっているのだけれど。 「恵みとは、如何なるものなのでしょうか」 彼が言う恵みは、いったいなんだろうか。雨は奪うのだ。よくいえば、流してしまう。悲しみ、憤り、苦しみ、すべてのものを流してしまう。それは同時に、奪っていることになるのだ。そんなものを奪って、流してしまえば、生きていく方向性すら見失いかねない。雨の中にひとり捨てられた子犬のように、行く道がわからず、ただ途方に暮れることしか、できなくなるのだ。私はそれが恐ろしい。しかし、それが恵みというならば、植物たちや、私たちを潤す恵みというならば、それほどに皮肉なことはない。(雨がないと生きていけないというならば、これほどに、皮肉なことは、)ぎゅ、と強く拳を握り締めた。知らぬ間に、唇も強く噛んでいたらしい。添えられた菊の手に気付き、彼を見れば、そこには少しだけ悲しそうな顔をした菊がいた。その表情に罪悪感を覚え、「ごめんなさい」と言いかけた私を知ってか、菊は私がその言葉を紡ぐ前に、口を開いた。 「私にとって、恵みとは、あなたそのものです」 私とあなたが会ったのは、雨の日でしたから。そう続けた菊の、細いくせにしっかりとしている体に、思わず抱きついた。温かな温度を持った彼のそれは、初めて会ったときと、寸分違わぬものであった。それが嬉しくも、寂しくもあり、彼は変わらないのだという事実が、見えた気がした。どうしてこの人はこんなに優しいのだろうか、分かってくれるのだろうか、ここまでくると、いっそのこと滑稽でもあった。けれど、菊が、どうしようもなく愛しい。 「菊、きく、」 「ええ、此処にいますよ」 それは、嘘だ。「うそつき、」この言葉は声にならなかった。彼の優しい嘘を、壊してはいけない気がした。 「わたしは此処にいます」 こんな優しい嘘を、どうして暴けるだろうか。そうして背中に回された力強い腕に、涙を流さずにはいられなかった。ああ、菊、続けた言葉は、声にすらならなかったものの(否、もし声になっていたとしても、雨に消されていただろう)、菊はきっと、分かってくれただろう。わたしも彼の背中に腕を回し、強く抱きしめた。今一瞬だけでもいい、この雨が降っている間だけでもいい、(けれどももし願えるのなら、願っても良いのなら、ずっと)「此処にいて」と呟いた。 |
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涙 日 雨 和 その雨は涙に良く似ていて、けれど涙ほど美しくはない (071216/日本/ブログにのっけたのを修正) |