何から何まで、あの人とは初めてだった。
愛しいと思えたのも、ずっと傍にいたいと思えたのも、キスしたいと思ったのも、抱きしめて離したくないと言えたのも、体が重なったあの瞬間に酷く泣きそうになったのも、その後にずっと抱き合ったまま眠ったのも、その朝は「おはよう」じゃなくて「あいしてる」で始まったことも、ぜんぶ、初めてだった。それなのに、あの人は、わたしの全部を奪ってどこかへ行ってしまった。この薄情者、鬼畜、悪魔。いくら罵声を言い並べても足りないくらいに、愛しくて堪らない。どうして今、隣に彼がいないのだろうか。いくら考えても、分からなかった。
あの日だって、いつも通りだった。寝坊することもなく無事に起きれたわたしは、トーストとスクランブルエッグとサラダとコーヒーを用意していて「おはようございます」彼が起きてきたから「おはよう」と返して朝のキスをした。朝食を食べ終わり、いつも通り「いってきます」という彼に「いってらっしゃい」とキスをして、抱きしめあって、出て行く彼を見送った。間違いない。けれど、それから、彼は帰って来なくなった。今まで、しばらく帰って来なかった日がなかったわけじゃない。それでも、そんな仕事の日があるときは「すみません、どうしても長くなりそうな仕事なんです。ああ、けれど心配しないでください。すぐに帰って来ますから。寂しかったら、いつでも、電話してくださいね。クフ、迷惑なわけないじゃないですか。愛しいの声が聞けるのなら、どんな辺境にいたとしてもすぐに出ますよ。ああ、けれどしばらく会えないのは本当に…、僕だって寂しいんですよ。クフフ、驚いた顔をしていますね。どうせなら分からせてあげましょうか、どんなに僕もを恋しく想っているか。今夜はじっくりと、ね」そう悪戯に言ってわたしをベッドに連れて行くのだから、いつも。けれど何も言わなかった彼、ツナくんに聞いても、何も言わない。千種や犬の姿も見えない。ああ、まさか、まさか!!悪い予感ばかりが駆け巡って、頭がおかしくなりそうだった。あの人は、わたしを置いていったりなんか、しないって、分かってるのに。
彼が帰ってこなくなって、2ヶ月と21日目。もう家にある食料がほとんどなかった。ずっと家から出ていないからだ。あの人が帰って来たら、おかえり、と言って温かいご飯を作ってあげたい。けれど、もし買い物に出かけて彼が帰って来ていて、またどこかへ行ってしまったら。そう考えると、家から出ることができなかった。ずっと、玄関の前に座っていた。毛布を持ってきて、それに包まって寝て起きて、お腹は空いているのだろうけど、空いているという感覚が沸かなくて、ひらすら、ずっとそこに座っていた。トイレには行っているはずだけど、やっぱりその記憶はない。けれど、シャワーだけは浴びている。彼はいつも「の髪は綺麗ですね。もちろん肌も、瞳も。全部、愛おしいです」と言ってたから、これだけは綺麗にしておこうと、毎日身体は清潔にしていた。だけど、人間とは哀しい生き物で、こうやってずっと彼を待っている間に、髪の毛はどんどん痛んできていた。ストレス、だと思う。自分の身体にストレスがかかればかかるほど、正直すぎるくらいに髪の毛が痛む。早く帰ってきて、早く会いたい、抱きしめたい、抱き合いたい、キスしたい。そう思えば思うほど、この身体は日々蝕まれていく。まるで麻薬中毒者だ。それも、このうえなく性質の悪いやつ。治療法は唯一つ。あの人が帰ってくること、それだけ。
そうやって、いつも通り玄関の前で毛布に包まって彼を待っていたときだ。何から何まで、あの人とは初めてだったと、思ったのは。こうやってずっと待っていることだって、前のわたしには不可能だっただろう。独りを嫌うのは同じだけれど、半永久的に続くかもしれないこの悲しみの中にいるくらいなら、彼に愛憎を寄せ自らこの命を絶ってしまっていたはず。今わたしが存在しているということは、同じく、わたし自身の強さを示していたのだ。彼によって、育てられた強さ。もう二度と離れない、離さない、ずっとずっと一緒にいる、そう誓ってから、わたしは強くなった。
ああ、ぜんぶ、初めてだ。彼はわたしの初めてをすべて掻っ攫っていったのに、どうして今帰って来ないのか。馬鹿、変態、阿呆。どうしてわたしを置いていったの。もう半分分かっていたことだった。けれど、認めたくなかった。認めてしまえば、今までの全てが失われそうで、怖かった。否、もう失われてしまっているのだ。だからこそ、怖かった。「骸」依然として開かれることのない扉を見つめて口を開いた。久しぶりに自分の声を聞いた気がした。酷く掠れていて、聞き取りにくい、醜い声だと思った。どうしようもなくなって俯けば「泣かないでください、」骸の声が聞こえた気がして顔を上げる。けれどそこには誰もいない。「骸、」もう一度彼の名前を呼ぶ。それでも、扉が開くことはなかった。
(071206//骸//苦しみは未だ続き、わたしの瞳を潰す様な罪を呼ぶ)